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映画「ハンナ・アーレント」を観る。無思考が生む「悪の凡庸さ」

この映画は史実に基づくものですが、人の感想で第一印象にバイアスを与えたくない場合には、観てから読むことを勧めます。

とある映画の繋がりから、この映画を知り、他所での思想面での記事より、この映画の情報を知り、最近、観た。
映画ではあるから、史実とは違う面もあるのかも知れないが、色々調べた範囲では、かなり事実を映像に反映しているようだ*1。実際の裁判の映像を使ったり、実際に裁判で行われたプロパガンダ性を感じる宣言は他所でも、そのような意図が見受けられた、との記載がある*2
裁判自体も、私が薄々感じていたように、適法かどうかにはかなり異論があるようだ*3
シンボルとしての「アイヒマン裁判」 〜ハンナ・アレントによる批判〜 より。

アレントから見れば、「アイヒマン裁判」はこうした教訓を伝えることでシオニズムイデオロギーを語る舞台としての役割を担い、ベングリオンはそのための演出家だったのである。

http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb812.html


映画は彼女が批判される元になった「エルサレムアイヒマン」の著述に纏わることを描いているのですが、随所に彼女の強さ、思考する事を捨てずに主張する信念を見ることが出来、心を打たれます。
特にラストのシーンの大学での聴衆への語りには心を動かされました。彼女は大学での職を失う宣告をされつつも、思考し、自分の考察を語る事を止めません。
多分、この映画の裏テーマは「思考する事」なのだと思います。
アイヒマンに対して「無思考」によっての「悪の凡庸さ」と評した彼女ですが、この映画を観ると「無思考」は他所にもみられる事に気づきます。
それは、彼女自身が示した「エルサレムアイヒマン」に対しての批判です。
彼女は徹頭徹尾、自らが見た裁判の情景事実を基に、十二分に熟考します。そして時間をかけて、「ニューヨーカー」誌に記載していくのですが、返ってくる反応は記事に対して熟考し批判するのではなく、無思考に彼女の記述を曲解したり、彼女が主張していない事を批判するものでした。
彼女自身はアイヒマンを擁護している訳でもなく「人類への犯罪」を行ったと主張しているのですが、彼女をナチと同一視したり、酷い侮辱の言葉を投げつけたりしています。「無思考の行為」や「悪の凡庸さ」については、彼女の言った意味を正しくとらえ、それを批評する言葉は、結局、映画からは見つかりませんでした*4


これは何を示しているのでしょうか。
彼女はアイヒマンは「悪の凡庸さ」を示しており、無思考に陥れば誰もがアイヒマンのように、悪の行為に無抵抗で従い「人類への犯罪*5」を引き起こす、と説いています。
つまり、われわれ普通の人でも、アーレント自身に批判者が示したように無思考の行為に手を染めてしまう。そして、その人々の中にはホロコーストを体験した人々も含まれているという事実です。


「人類への犯罪」への道は、何のことは無い日常の無思考から生じていく事なのかも知れない*6。その事を、深く心に刻んでおきたいと思います。

*1:映画の公式サイトによれば、その事にかなり注意を払ったという記載がある。「本作では、アーレントの人間像を正確に描くため、アメリカのアーカイヴに保存されている文献資料や映像資料に頼るだけでなく、彼女の生涯と仕事を長年見守ってきた同時代の証言者たちに、長時間のインタビューを行なった。」 cf. 特別掲載 「ディレクターズノート」

*2:これ以外にも、他の裁判でもありそうな話だが、裁く内容と無関係の証言が酷い、とアーレントに嘆かせていたりする。

*3:発端のアイヒマン逮捕も正式な手順を取らず、モサドの諜報活動によるものである。

*4:多分、今に至るも、この言葉を正しくリカしている人は意外に少ないのではないかと思います。ナチを特別視し、我々はそうならない、と安易に発言する人がいかに膨大な数存在している事か。

*5:彼女はアウシュビッツへの行為を、ユダヤ人に対してのみならず、人類への犯罪としています。「アーレントにとって、人間の無用化をはかったナチスの犯罪は、ユダヤ人に対する犯罪というよりも、「人類に対する犯罪」でした。」 cf. 視点・論点 「ハンナ・アーレントと"悪の凡庸さ"」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス

*6:社会心理学の実験では、舞台装置を整えれば、ごくごく普通の人が人への虐待行為に手を染める、という結果も示されています。