luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

luckdragon2009 - 日々のスケッチブック [過去記事]

障害に対する無理解。障害って、本人には意外に不幸じゃないんですよ。

先日の発言の方は辞任されたようだ。→ 「障害わかれば」発言の茨城県教育委員が辞意 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
ちなみにですね。元々障害を理由とした妊娠中絶は法的に認められていないですよね。
私の過去の記事で取り上げています。微妙なニュアンスがあるにせよ、裁判所は法的には障害の有無に関しての中絶を認めてはいません。→ 判例に学ぶ。「生前検査による中絶行為は、容認されていない」という事実。 - luckdragon2009 - 日々のスケッチブック
そういう意味でも、不適切な発言だったのですけどね。


個人的には、こういう発言が問題となった機会を得たのだから、それを機に障害者団体を訪ね、障害者たちがどんな気持ちで日々の生活をしているのか、それを知って欲しかったです。そうすれば、前述の「生まれない方向に」が、優生学的以外にも、間違った方向だという事が分かったはずです。
私は先日の記事で書きました。障害を減らせる方向に、が何故いけないのか。 - luckdragon2009 - 日々のスケッチブック より、

つまり、その時の社会や個人にとって都合の良い定義によって、障害と言う定義がされ、その子供の出産が妨げられる可能性があるのです。そこの部分が忘れられがちです。そこは、とても重要な事です。

http://d.hatena.ne.jp/luckdragon2009/20151120/1447963496

上記で、優生学的な視点から述べたので、今日は違う視点から述べてみたいと思います。


障害があると、それをひどく不幸なものと捉え、だから生まれなかった方が良かった、と述べる方は多いですよね。無論、全く障害がない状態で、総ての人が生まれるなら、確かに最良かもしれません。しかし、前述したとおり、障害と言う定義が曖昧な以上、どんな内容も障害と考え得るのだし、それって無理な事なんじゃないですか。
何もかもが障害と思える人にとっては、どんな理想的な体に生まれついても、何かを障害と思ってしまうだろうし、そういう視点から言えば、生前検査も際限がなく、障害の有無を追及してしまうでしょう。
そこで、はっと気がつく人は居るかも知れない。障害の有無って、気持ち次第だし、何か他の要素が幸福感を左右しているんじゃないか、って。
そうです。障害を疎ましく思う気持ちって、状況にもよるけど本人の感覚ではないです*1。外側からの感覚で語られる事が大いにあります。
とある全盲の少女が語ります。「私、別に目が見えない事を特段不幸に思っていないのに、周りから『かわいそう』って言われるの。」と。
彼女にとって、生まれつき全盲な事は、失った訳ではないので、そもそも不幸という感じはありません。にもかかわらず、周囲が不幸だという感情を持つ違和感を訴えています。そう、不幸感は周囲が勝手に感じてしまっていたのですね。
また、彼女は元々持っていない喪失感ですが、機能を失った障害者が、それでもなお生きていく事によって、普通に幸福感を感じていく事が出来ている、と語っています。
人間は色々慣れる事が出来る生物ですし、私も自分自身の経験から語りますが、障害を負っても、普通に幸福感を取り戻すことが出来ますよ。つまりは、障害があるからと言って、不幸だと決めつける事は出来ない、という事なんです。
障害者団体などで、そういった方々と交流すれば*2、自らの相手への偏見を改めることが出来ると思いますよ。
考えてみてください。総ての人類が目が見えなかったら。もし、総ての人が全盲なら、目が見えない事を不幸だとは思わない筈です。そして、多分、その設定の人類は視覚以外の、別の手段での周囲認識能力を持っている筈です。それが分からないのは、人類が種として、視覚に大いに頼る文化を築いているからでしょうね。
つまりは、障害は社会が作り、認識し、そして下手をすれば、対象の人の想いとは別に、押し付けられたりするのです。そういう意味でも、障害ってずいぶん社会的で、外側からの曖昧な言葉なんです。それをちゃんと知って欲しいと思います。

*1:生きるのにひどく辛い障害は存在します。それ故に、そこまでを否定しようとは思いません。しかし、総ての障害が、不幸感の源ではないですよ。

*2:勿論辛い事が存在しない訳ではない。しかしながら、障害が無い人が考えている程、不幸でもない。