luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

luckdragon2009 - 日々のスケッチブック [過去記事]

本当の問題は何か? 「胃ろうとシュークリーム」でも触れられていない点について。

あまり「本当の問題点」という言い方はしたくないのですが、実際に本書で取り上げていない、というより、多分気づいていないのではなく言及していない点について書きたかったので、この言い方にしました。
「胃ろうとシュークリーム」では、医療者から「死生観がない」と言われ、介護者からは時に搾取や虐待も受けている記載のある、要介護者。さすがに「引き受け先(介護)」の人には、「インフォームド・コンセント」のきつさや、自己の行動の指針を考えるのには時間がかかることの理解は進んでいるようだが。
指摘したいのは、要介護者や、家族などに「死生観がない」のが「行動指針に明確さがない理由ではない」という点について。
よく考えてみてほしい。要介護者とはどういう状況か? 人に頼らなければ生きるのがつらい状況の人、ではないのか?
であるのなら、自己決定の意志があり、実際に「そうしたい」という意志があっても、周囲を慮って発言を躊躇する、ということはないのか? また、自分が置かれる状況に混乱し、焦燥し、状況を認識し受け入れるのに時間がかかっているという事はないのか?
人は重大な健康の問題が発生したとき、自己で重大な身体の障害が発生した時などに、PTSD を発症することがある。また、自己の置かれている状況を認識するにあたっての、段階的な心理状態を経験する。
そういった状況下で、かつ認知の問題が発生しているのであれば、自己の状態に関する意思決定について、明瞭な発言が返ってこないのは、ある意味当然なのではないだろうか。
そういう意味で、先日の 高齢者に限った話でもないが、死生観を言う前に、生き方を考えるだけで済むのでは? - luckdragon2009 - 日々のスケッチブック で書いた通りに、問うべきは今後の生き方*1なのではないか、と思う。


あと、追補しておきたいことがあるのだが、こういう高年齢医療や介護の問題を考えるときに、人は何故か自己が要介護の状態になったら、と考えずに、「要介護者を相手とする」視点で考えてしまいがちだと思う。自分が要介護者に行う事は、今後自分にも跳ね返ることだという重要な視点なので、ぜひ被介護者という視点でも、ちゃんと考えてほしい。


最後に。「胃ろうとシュークリーム」でも、日本老年医学会のガイドラインでも明確には触れられていない内容について。
時に「胃ろうの中止の決定」の際に、重要な考察となるかもしれないので、「海外での胃ろうの少なさ」についての重要と思える情報があったので、少しだけ引用しておく。
滝上宗次郎『福祉は経済を活かす――超高齢社会への展望』 より。

北欧諸国では延命治療はやらないということですが、それは単に延命治療の放棄ということに止まりません。疾患の治癒の可能性までも放棄しているのではないでしょうか。
 よく北欧の高齢者事情を紹介した本では、老人ホームにおいて、徐々に衰弱し、食事もとれなくなり、水もとれなくなり、静かに息をひきとります。これが「みなし末期」です。一見、老衰に似ていますが、全く違います。衰弱し食事も水もとれなくなった原因は、多く脱水か急性疾患にありますから、その原因を取り除けば元気な姿に戻ります。実際、点滴一本だけで回復する場合もよくみられるはずです。決して、老衰死ではありません。

http://www.arsvi.com/b1990/9506ts.htm


少しだけ補足しておくと、「胃ろうとシュークリーム」で語られない言葉*2は、傍らにいて、時に言葉を発する事の出来ない要介護患者*3の事です。勿論、言葉はないかもしれないが、本来の主人公の筈。

関連リンク
一見何気ない終末期医療問題の背後にあるもの: ぐり研ブログ
http://www.jpn-geriat-soc.or.jp/proposal/sisin.html
滝上宗次郎『福祉は経済を活かす――超高齢社会への展望』

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*1:人が「死生観」と言う時には言下に「死」をほのめかしている事を忘れてはならない。人が生きたいときに、違う事をほのめかすのは、どういう状況か、よく考えてほしい。こんなところでも同調圧力ですか?

*2:5+1 の視点に加わる、5+1(+1) の視点。

*3:時に傍若無人な患者もいるので、理想化はしないし、忌避される責任も時にはあると思う。高齢者は尊敬すべきだが、無垢でもない、と医療者だったか、誰かの言葉もあるし。ただ、スルーされるべき存在でもないだろう。日本老年医学会のガイドラインでも、ちゃんと触れられている。