luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

luckdragon2009 - 日々のスケッチブック [過去記事]

心穏やかな生活のために大切な、会話すべき相手。そして、行動の指針。

人が悪魔の証明めいた事を言い出したら、その人の論はほぼスルー(無視)で、良い。 - luckdragon2009 - 日々のスケッチブック の続き。
上記で記載した無敵の論は、議論遊びや、愉しみの会話の中で嗜む分には実害はないし、時にジョークの文脈で使用するのに目を顰めるほど、私は道徳論的な人間ではない。
ただ、会話の内容が実害をもたらすものであるかについては、鋭敏な感覚を持っていたいと思う。
清水修二氏『明確な根拠も無く遺伝的な影響を口にする世の「識者」たちは、自らの言動のもつ重い影響と責任を、自覚しているのだろうか…』 - Togetter では、不毛な会話が続いている*1と思うので、大元の 【寄稿】 「遺伝への懸念」がもたらす悲劇 | 東日本大震災 | 福島民報 に立ち戻ることにする。

原爆被爆者たちが歩んだのと全く同じ苦難の道を、福島県民は歩まされるのだろうか。明確な根拠もなく遺伝的な影響を口にする世の「識者」たちは、自らの言動のもつ重い影響と責任を、自覚しているのだろうか。

 広島・長崎やチェルノブイリ事故の貴重な経験が、ここ福島で全く生かされていないと言わざるをえない。低レベル放射線の健康影響については未解明な面があるが、「分かっていない」のひと言で「分かっている」ことまで無視してしまっては、過去の犠牲や教訓は無に帰してしまう。

http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/08/post_7886.html

「自らの言動のもつ重い影響と責任を、自覚しているのだろうか」←私は結論付けることはできない。しかし、推論するに、「責任を自覚しているとは言えない」と言わざるを得ない。
責任を自覚しているのであるのなら、その影響*2に対して責任を負い、自ら生じさせたストレスや、苦しみに対して、具体的な行動を起こすと思う。しかし、その行動は見えないし、その言動はそれを打ち消すばかりだ。
我田引水な言動が見受けられるに至っては、貴方は、その関係を断ち切って、無関係となってください、と思う人々も多いのではないか。←これについては、実際にそう言及している例も多いが、敢えて例示はせずにおく。そう言いたい方々が実際に言葉を投げかけた方が、その方々の望みを果たすことになろう。


「分かっている」こと、の例

8月8日の報道ステーションで取り上げられた広島大・鎌田七男名誉教授の研究の原著論文を探して読んでみました - Togetter
お探しのページは見つかりませんでした | 福島民報
http://radiographics.rsna.org/content/27/4/909.long


...さて、今後の指針となる行動について、最後に会話すべき相手と、行動の指針について、述べておきたい。
私自身も、大層なことをいう事は出来ないが、こういう際に会話すべきは、本人の感情的側面よりも、物事に対してバランスを考え、物事について論理的な分析と考察を怠らない人を選ぶべきかと思う。
ちゃんと自らの思想と、論理的分析の内容を分離できる人、を選んだ方が幸せになれるであろう。
行動の指針についても、大げさにならずに、ちゃんと自らの手が届く範囲で努力し、最善であれば、今後の人生をより良く過ごしていけるのではないか、と思う。止めてほしいのは、「あの時、〜をしていれば」という後悔の心情ね。そんな事を思っても、将来に何の良い影響をもたらすことがない。
自ら、できるだけの努力をし、その行動の実りを信じて、将来へ歩むこと、希望を持って、そう行動していってほしいと思う。
世の中、色々、無情なことはあると思うし、今後もあるとは思うけど、めげずに歩んでいってほしい。...私も、そうします。

*1:既視感を覚えるし、一部の方の言動には、特定の概念への依存症的心理構造が見える。心理分析というのは慎重であるべきなので、断言を避けるが、懸念は非常に強い。←なお、関連してだが、心理分析は安易に言葉にしてはならない。何故なら、曖昧な概念を固着化するのは、ステレオタイプ思考の典型であるし、悪化の一因にもなるので。ただし、本人が治療したい意向の場合は、本人の分析のためには必須となる。ただし、行動は慎重に。心理学は安易に言葉にし易い故に、悪用も容易です。

*2:例えば、その言葉が人を悩みの心理に追いやったり、時に自死に思いがいったりする事。なお、補足しておくが、どんなに苦しくとも自死を試みてはならぬ、と強く言っておく。それは連鎖を含め、自分と周囲に強い苦しみを生む。私は無責任に言葉をいう事は出来ないが、「自らの生きてきた経験は、苦しみが生じても、生きてこその愉しみがあった。」とのみ言っておく。