前日のエントリーの続き。
基本的に、言葉の誤りはあるし、想いの間違いはあるし、伝える手段の不適切さ*1、というのもあると思う。
しかし、相手の事を考えていれば、 自分の理解が間違えているかどうか? 相手を知ろうとしているのか? それとも、自分が想いだけで失速していないかどうか?
...それに、ある程度気付こうとするのではないか?
例えば、福島の人の事を知ろうとしたかったら、話をしようとしてみればよい。
余りに多数だ、もしくは、近寄り過ぎて、理解が逆に難しくなる、と言うのであれば、それに準じた方法をとればよい。
別に、人に生き方を強制する必要はなくて、その人が、そういった違和感や、気持ちのすれ違いを理解する、何らかの会話*2をしてみれば良いと思うのだが。
福島の人への気持ちとしての行動であれば、そういった行動をすれば良いのでは、と思う。
そうではなく、単純に、その他のまた違う考えがあるのであれば、つまり、福島の人への気持ちと言うよりは、また違う何かの考えの発露というのであれば、それが示される事になろう。
何れにせよ、福島の人に、今後の挙動が注目される事になっているように思う。
そして、心情の発火点が福島の人にあったとしても、その考えが自己陶酔的で、勝手な主張、という事であれば、その発火点の人々に嫌われるだけだと思うが。