luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

luckdragon2009 - 日々のスケッチブック [過去記事]

結局、選択肢がある限り、ゼロリスク神話は続く...。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1739885.html』についての話。
この文章を読むと、ゼロリスク神話が、一見否定されたかのように読める。特に、途中まで、文章の外形だけ読めば、そう読めなくもない。
しかし、この文章で読みとるべきは、その処ではない。この文章を最後まで読めばわかるが、人は選択肢がある限り、リスクがゼロに近くなる方を選択するものだ、と書かれている。

まず、人々が「ゼロリスク」を求めるのは、彼らが非合理的だからとはかぎらない。たとえばあるリスクについて、回避のコストが「ゼロ」である場合、すなわち、代わりとなるゼロリスクないしリスクが充分に低い選択肢があって、それを簡単に入手できる場合には、たとえ小さなリスクであっても、わざわざ好き好んで受け入れる者は少ないだろう。

たとえば、わずかでもリスクがある(と考えられている)食品と、リスクが「ゼロ」である(と考えられている)食品とがあって、他に特段の差がなく自由に選べるのであれば、後者をとるのは必ずしも非合理的とはいえない。あるかもしれないと考えられるリスクが、上の表1に示された基準に合致するものであるなら、多少の価格差があってもこの判断は覆らないだろう。食品で風評被害が起きるのは、代わりに選べる他の食品が豊富にあるからであって、これはBSE騒動のときに人々が牛肉を忌避したのと基本的に同じ構図だ。

もちろん、このような判断には一種の合成の誤謬が生じうる。消費者が皆このような判断をすれば、選択されなくなった食品等はまったく売れなくなる。それが適切な判断であればいいが、そうでなければ、本来価値があったはずの食品等がまったくムダに廃棄されることになるわけだ。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1739885.html

例えば、このような構造を考えてみる。
「実際には、非常にかなり高確率で存在し、実際にはごく普通に生活し続けるのが一般的である多くの精神病治療者について、人々が偏見を持ち続け、就職等で障害となり、対象者が病歴を隠し、投薬の事実を隠し続けるのはなぜか。」
「ごく普通に勤務可能な障害者が、就職に関して、実質的に忌避され続けているのはなぜか。」
「実際には、さして問題ないはずの、福島の食品*1について、一部であれ、人々が偏見を持つのはなぜか。」
「非常に一般的に存在する生活習慣病や、持病に対しての偏見が存在し続け、それで就業困難になったりするのは何故か。」
「自分とは関係ないから、と、自家用車代わりに救急車を利用し、本当の緊急救護者を困窮に陥れている構造が存在し続けているのはなぜか。」
「アレルギー患者や、幼児など、注意しなければならない人々が存在し、その人たちが困るのが明らかなのに、人々が買い占めに走ったのはなぜか。」


...これらは、選択肢がある人と、選択肢が実質的にはない人の衝突を意味する。
選択肢がある人が、自己に有利な選択肢を選んだ事で、選択肢がない人*2を陥らせている現実が、まだ色濃く存在している現実がある以上、残念だが、まだ机上の空論に過ぎず、実行が軌道に乗るのに時間がかかると思う。


そういった、世の中の偏見は、過去よりは良くなっているとはいえ、まだ、偏見自体は根強い。


参考文献
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*1:時には、避難者に対して。

*2:例えば、持病のある人が、自分の持病をなくすことはできない。福島の避難民も同じ。障害者も同様。