luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

luckdragon2009 - 日々のスケッチブック [過去記事]

相手との会話なしには、理解なし。本人に最初から最後まで寄り添うのは、本人なのだから。

人を一生懸命解説したがる相手の馬鹿らしさ加減を、うまく説明できないでいる。
どんなに根気強く説明したとしても、本人の思い込みを、その認知バイアスで強化した、相手への偏見*1として語る人は、それを捨てようとしない。自分の確信の強さから、固着した言葉を繰り返す人は、自分の誤りを決して認めようとしない。
多分、無理なのであろう。そういった方々の偏見の思考を変えるのは。


しかし、よく考えてみれば分かるが、親や子供や、恋人など、親しい人にとっても、その人は生涯近くに居る訳ではない。親の場合には成長と共に離れ、恋人などは出会う前は分からず、そこに知らない事は多かろう。そしてともに住んでいたとしても、常に同じ場所に居る訳でもない。同じ場所に住んでいたとしても、行動の総ての動機、心の動き、思考、それらを知る事は容易くない。
本人の外からの見え方、という外見以外には、本人が自分の事総てを知っている。他人ではなく、本人が。常に一緒に居られるのも、生まれた時から、死ぬまで本人のみ。


そこの部分を軽視しては、相手の理解など、おぼつかないと思う。それなしの、相手への確証は、自分の思考した結果を相手に押し付ける事に繋がる。
故に、相手との会話は常に重要で、私にとってはそれが成立する事が、他を優越して最優先の「相手との付き合いを継続するかを判断するポイント」です。...成立しているうちは、それぞれに互いの認知の間違いを修正する機会はある。それが失われた時、相手の実像は確証の持てない幻へと変貌する。

*1:敢えて、こう呼ぶ。それが的中したかに見えたとしても、観察と対話から生まれたものでは無い場合には、偶然の産物であるが故に、結局、マグレあたりに過ぎない。それを認めようとしない人にとっては、この言い方をするしかないだろう。