luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

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聲と、向き合う。聲の形、ラストが示した事。

ラストだけに、もろにネタバレしますので、未読の方は読んでからの方が良いと思います。
聲の形、先日、やっとで読み終えました。最終巻である 7巻は、昨年には出ていたのですが、読むのが延び延びになっていまして。
ところで、聲の形では、口から言葉を発して話すという事ができない、西宮硝子さんは声を出せないけど、本作の「聲(こえ)」って、そういう意味じゃあないよね。例えば、手話を見に付けた石田だって、手話に出来ないでいる事はあるし、自分と、学校の多くの人との間を繋ぐ聲を、失ってる。
時々取れたり、付いたりすることもあるけど、登場人物の顔について、相手の表情を見えなくしている×印。あれは、石田が、付いている相手の聲を聞いていない事*1を、多分、示している。そこに、私は「相手との間に聲を失った世界」を見る。
この作品は元々物議をかもした読み切りの作品が最初にあり、多分、作者の元々の意図や、色々な思いがあって、連載に至っている。その作品の中で、読み切りでは最後に切り捨てた形で終わってた、虐めに加担した者たちが、自らの聲を内に秘めて再登場している。
読み切りでは描かれなかった、登場人物に秘めた思い、これらは巻数が進むにつれ明らかになって、一面的に見えていた行動が、実はそれぞれの体験に裏打ちされたものだった事を読者は知る。
硝子の出生にまつわる、硝子の母の物語は、聴覚障害が先天性で感染症*2によるものである事を示唆し、その場で、冷酷な言葉が硝子の母に突き刺さっていたことを、読者は知る事になる。時に頑なだと思える硝子の母も、実は語りたい聲がありながら、周囲へそれを伝えていなかったのかも知れない*3
この巻は、意識を失っていた石田の空白の二週間の間に、映画作りが再開されていて、その映画の中で語られる各自の聲も、色々興味深かった。会話の形ではなくとも、映像の表現に滲み出る、各自の行動が示した、それぞれの聲。
...そして、石田が最高だと感じた映画に対する、著名な方の勘違いした批評。仲間の間で、取り戻しつつある「聲」が、それを意識していない人には存在しないのだろうと思うけど、この人にも、違う形での聲が実はあるのかも知れない。映画も、身内が観るのと、まったく事情を知らない人が観るのとでは、見所が違うからね。


最終的に、この巻までの「聲の形」で、各自がまだまだ表現できず、また、聞いた相手も聞き逃している聲が、まだまだ存在しており、各自がそれを聞き続ける必要がある事が示唆されて終わる。石田は結局の処、植野から教えられるまで、硝子が美容師を目指していると勘違いしてたし*4
ラストシーン。扉を開ける石田と硝子、そこには更なる、相手との失われた聲との出会いがある。時に辛い事もあるだろう。しかし、生き続けている限り、そこからの復活もある。「聲の形」にする試みは終わらない。それは、何度も繰り返される「始まり」だ。
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*1:聞こえているけど、聞きたくない時にも、この表現は使われていた。この巻でも、映画の評を大声で言ってしまい、場内が明るくなって、みんなの顔を見れなくなった時に、全員の顔に×印が付いてしまっている。80頁。

*2:風疹による難聴は、先天性風疹症候群の症例として存在する。このエピソード自体は、その数が増加した時期に重なっているようなので、話題のトピックとしてリンクさせたという事なのかもしれないが、硝子の母が、心の底に想いを秘めている事が分かるエピソードになっている。

*3:良く考えたら、硝子も石田も、母子家庭なんだよね。母親たちは、案外、両方とも性格は違うながら、結構気が合うかも。この巻のエピソードを読んでいて、そんな感じがした。

*4:植野も、最後の聲は語れなかったね。多分、それは植野の石田に対する想い、だと思うけど。