luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

luckdragon2009 - 日々のスケッチブック [過去記事]

相手の無言、ないし抑えた非難の段階で、気づく事の大切さ。

日々、日常の生活で、実は大っぴらに批判できる場と言うのは案外少ない。多分、それが少ない、と感じにくい人は、自分の要求や不満を大いに周囲に振り撒ける、幸運な立場であるように思う。
そういう立場で居続けるのは案外難しいし、そんな人でも簡単に周囲を批判できなくなる立場に追いやられることは、その機会が来る場面が来れば容易に分かるのだけど、かなり多いんだよね。
故に、多くの人の批判は、重大な場合にでも、静かな言葉を使わないジェスチャーだったり、抑えた表現だったりする。


だから、相手の何気ない批判に気づく事、そして、それを正しく理解し、その内容を論理的に検証する事はとても大事。特に、最後の方の、相手の批判内容をきっちり検証して、論理的整合性を確認し、論理的で正しい行動に直していくことはとても大事。
だって、相手の批判が正しく機能し、その結果で一番望ましい事、というのは「論理的に正しい行動を誘発する」という事だからね。
相手の批判の表現が多少不足していたり、ズレていても、最後がちゃんとしていれば、そこで行動が正しくなる。


一番いけないのは、相手の批判が抑えたものになっている状況を理解できずに、相手を叩き潰してみたり、相手の批判行動を無視したいが故に、相手の行動を封じたり、自分の醜悪な行動を誤魔化すために、相手の行動を醜悪に誇張したりする事。
時に、自己の行動で気づく人も居るんじゃないの? 相手の注意が疎ましくて、ことさらに相手を卑下し、そして、自分の醜悪な行動自体は止めない、という自分の過去の記憶を思い出してみよう。


心ある人だけで良いから、そういう行動は改めて欲しい。相手の行動の批判に専任するだけではなく、それを生んでいる自分の行動を鏡に正確に映してみることを是非やって欲しい。
コンサルタントの道具箱」から、一法則を引用します。

「相手が奇妙な行動をとっていたら、多分奇妙なものに反応しているのだ。それはたぶん自分である。(p.187)」

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