luckdragon2009 - 日々のスケッチブック(Archives)

luckdragon2009 - 日々のスケッチブック [過去記事]

人の心を思いやる難しさ。...私だって、親しい人を亡くした立場なのに...。

http://traumaticstress.cocolog-nifty.com/test1/2010/11/post-90e8.html』のところで知った内容です。*1
http://www8.cao.go.jp/hanzai/whitepaper/w-2009/html/zenbun/part2/s2_6_7c9.html』に手記があります。こっちが大元だと思うので、こちらから引用。

でも、そこまでが限界でした。わたしは何もかもが負担に感じるようになり、現実から逃れて部屋に閉じこもるようになりました。部屋の中でわたしはずっと本を読んでいました。本の世界に逃避したのです。でも、「殺人」とか「事故」といった単語が出てくると発作のように恐怖感が襲ってくるのです。読めたのは学術書や研究書ぐらいで、テレビにいたっては見ることもできませんでした。

手続きするたびに兄とこの世を繋いでいる糸を一つ一つわたしが切っていくように思えて、まるで自分が兄を殺していくようでとても恐ろしく感じました。

両親に何か頼まれると、わたしはそれを非常に重苦しく感じました。でも果たし終えてありがとうと言われると嬉しいと思いました。
周囲の人々から「ご両親は大変だから、あなたが頑張って、ご両親を支えてあげるんだよ」と言われてそれを実行しなくては、という思いもありました。
ただ、そんな日が続くうち、兄が死んだのに、自分が必要とされることを喜んでいるような気持ちに気が付いて、どんどん落ち込むようになりました。

http://www8.cao.go.jp/hanzai/whitepaper/w-2009/html/zenbun/part2/s2_6_7c9.html

...こういうのは、見事にトラウマ、フラッシュバック、スティグマと言われる状態ですね。
実際、酷い事があった人は、まずは直後、酷い憂鬱や落ち込みに襲われます。そして、それを想起するたびに、意識するたびに、非常に大きな苦痛を感じます。


で、実は強調したいのは、この事ではなく、冒頭に書かれている、この部分。...引用しますね。

わたしが、周囲の人から掛けられた言葉は、次のようなものでした。
「ご両親は大変だから、あなたが頑張って、ご両親を支えてあげるんだよ」「ご両親はかわいそうだ」「お兄さんの分まであなたがしっかり生きなくては」
最初は、その言葉を素直に受け入れました。でも、あとで
「頑張れって言われても、これ以上なにをどう頑張ればいいのだろう」「わたしも遺族のはずなのに、どうしてわたしだけが頑張らなければならないのだろう」「兄弟を亡くした悲しさは、子供を亡くした悲しさよりも軽いのだろうか」
そんなふうに反発を感じて、ひどく落ち込む結果になりました。
もちろん、そういった方々に、悪意があったわけではないでしょう。でも、掛けられた言葉は、わたしの負担になるものでした。
わたしはずっと、どうしてそんな言葉を掛けられるのだろうと疑問に思っていました。
そして、あまり兄弟の気持ちについて語られていないのではないかと思うようになりました。

http://www8.cao.go.jp/hanzai/whitepaper/w-2009/html/zenbun/part2/s2_6_7c9.html

上記の、ここを読むと、見事にこの方の心境を周囲が分かっていないのが判明します。実際、両親は子供を亡くされた訳ですが、この方は兄を亡くされた訳です。同じく家族を亡くされている訳ですよね。
でも、何故か、この方については「兄弟を亡くした悲しさは、子供を亡くした悲しさよりも軽いのだろうか」と感じる事態になっている。この方は、相手を思いやって「悪意があった訳ではないでしょう」と言っていますが、悪意はないが、無神経であるとは言えますよ。亡くなった方は、この方と無縁であった訳ではないのだから...。


そして、掛けた言葉が、この方の心を縛り、落ち込ませている。...多分、記憶に亡くなった方の面影が思いだされるたびに、それ自身の悲しみとともに、この言葉の重みも、同時に圧し掛かってきた、そう思います。
結局のところ、手記自体にも明確には述べられていませんが、自分の心の中で、何らかの形で、そういう気持ちを「自分だけで」解消しなければならなくなったように思います。


実は、案外、こういう事ってあるんではないかなあ...。犯罪被害者は極端にしても、誰かが傷ついたとき、人は結構その事を「そんなもの」とか言ってしまいがちです。その「そんなもの」は、その人が感じている感覚ではなく、その本人のものなのに。そして、その本人のものである以上、その本人しか分からないのに。
私に寄せられる相談でもそうですし、私自身が体験した、セクハラ*2パワハラめいた体験でもそうですが、結局のところ、当事者以外が分からない、という点では、当事者は非常に大きな疎外感を覚える事があります。心のケアが非常に重要であり、注意深い対処が必要なのは、それ故です。


体験者の言葉は重いので、もう少し引用。同じ手記からです。

わたしをよく知る人でさえ、完全に理解してくれることはありませんでした。世間の日常が押し付けられ、全身全霊の勇気をふりしぼって事件の話を打ち明けても共感を得るのは難しいことでした。
ある日、軽く笑われて「精神的負担ってやつ?」と冗談めかして受け流されたときから、わたしは聞かれても事件の話をしなくなりました。

http://www8.cao.go.jp/hanzai/whitepaper/w-2009/html/zenbun/part2/s2_6_7c9.html

...どう感じますか?
...自分の心の中で、一度考えてみてください。




ただ、救いはあると考えています。友人のこの言葉が救いだと思います。

わたし自身、何度も死にたいと思いましたが、友人のひとりがこんなことを言ってくれました。
「周囲の人の幸せが、自分の我慢の上にあるなんて、そんなのは嘘だ。まず自分が幸せじゃなきゃ、周囲の人を幸せには出来ない」

http://www8.cao.go.jp/hanzai/whitepaper/w-2009/html/zenbun/part2/s2_6_7c9.html


...この感覚を当然のものとして行きたいと思います。誰かの犠牲の上に、世界が幸せになる訳ではないです。*3

参考リンク
http://traumaticstress.cocolog-nifty.com/test1/2010/11/post-90e8.html
http://www8.cao.go.jp/hanzai/whitepaper/w-2009/html/zenbun/part2/s2_6_7c9.html
フラッシュバック (心理現象) - Wikipedia

参考文献
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*1:ただ、このサイトの文章、少々最近政治的な色が見られて、ちょっと閉口。心理学的な内容を知りたいのに、政治色を出されてしまうと、すごく読み難い。

*2:実は、私自身に対するセクハラも、実体験として存在します。男性にセクハラがない、とか言われると、怒りを覚えるのは、そういう体験からでもあります。ちなみに、女性からのセクハラです。当然、内容は書かないよ。私の感情に関しては、『ちょっと感じた事。〜偏見を疑う場合には、自分を肯定する主張も疑ってみよう。〜 - luckdragon2009 - 日々のスケッチブック』にて記事も書いた。

*3:結果として、一時的に誰かが犠牲になったり、完全に犠牲の上に成り立ち続ける関係も、現実には存在するとは思う。しかし、それが常態と化し、それでなくては維持できない関係は、オカシイと思います。