少し考えを修正...。
ニセ科学、ニセ科学批判、ニセ科学批判批判...以下続く...、に共通する、パターナリズムというか、変な正義感みたいなものに感じる違和感を自己分析していて、二点、気が付いたのだけど、要は多分こういうことだと思う。*1
1. ニセ科学の場合
- 理論を主張する際に、感情を充填した論を多用する。*2
- 自説を飲み込ませるために、相手の心理に揺さぶりをかけることが多い。相手の状態に対して、変な因果関係を関係付ける。*3
2. 各論に関しての批判の場合
- 理論に対する分析なのだから、理論を展開している人物に対する心理分析とは注意深く分けて考えなければならないのに、ごっちゃにして、人物に対する批評まで追加してしまっている。*4
3. 共通に見られる問題点
- 本来、自己の信念、思想は自由であるべきであり、人から強制されるべきではない。また、従わないからといって、法律や規律により罰則を課すのは、共通の利益を損じる場合以外はおかしなことである。どんな思想であっても*6 *7、立場や行動の違いによってのみだけでは、行動を強制されるべきではない。*8 人間は、互いにクローン人間の存在ではないのだから。
- {Written by luckdragon2009 2009.10.04 1:30}
- {Written by luckdragon2009 2009.10.18 10:00 (3.を補足)}
*1:現時点での洞察に過ぎないが。
*2:ニセ科学の場合は、自己理論の説明に、心理的説明が変に混入している。
*3:ニセ科学の場合は、意図的にそうしているふしが見受けられる。
*4:批判については、そこが余分。
*5:ここは医者や看護関係者、消費者対策関係者などは訓練されているが、それについては素人の人たちが多い。もしくはそれに無関心。...もちろん、医療関係者だって、ドクハラに見られるように、無関心な層はいるが、それについて、まったく素人/無関心、という訳ではない。
*6:実はニセ科学批判側も、特定の分野や、特定の個人の思想に限られるようだが、自己の感情の強さのあまりに、特定思考を強制する姿勢が見られる。ニセ科学側が感情に訴えて、それを主張するのに対し、批判側は社会的な正義だから、と主張することが多いようだ。
*7:ニセ科学に対する訴訟のために、罪の科料の内容を云々している人がいて、かなり珍妙な法律理論を主張していたのには、笑った。人は主義の傾向(嗜好)によって、罪の科料を増減させられたりはしない。罪の行為の重さ自体や、故意か過失かというのは分かるが、それは厳密かつ細心の思考によって考察すべきであり、あまり感情に走るのもどうかなと思う。
*8:十数年前に、思想を統一しようとして、どう愚行を重ねたかは、十分すぎる程のエビデンスを残しているのだが、喉もと過ぎればで、また繰り返すことのないようにしたいものだ。